書評

Mari Mizuno, Yoshitoshi Murasato and Harumi Takemura eds., Spenser in History, History in Spenser

Mari Mizuno, Yoshitoshi Murasato and Harumi Takemura eds., Spenser in History, History in Spenser
Osaka Kyoiku Tosho, 2018. viii, 162 pp.

1985年創設以来、日本におけるスペンサー研究を牽引してきた「日本スペンサー協会」は、既に『詩人の王 スペンサー』(1997)および『詩人の詩人 スペンサー』(2006)という充実した記念論集を刊行している。だがこの度の論集は、編者のひとり水野眞理氏が序文で述べているように、海外の読者をも対象とした“the international platform” でスペンサー研究への貢献を目指した、英語論文集であるところが画期的だろう。まずは、その志の高さに敬意を表したい。また収録された論文8点も、我が国におけるスペンサー研究のレヴェルの高さと多様性を示すに足る力作揃いである。

巻頭論文は、鈴木紀之氏の書誌学・本文研究 “The First Folio Edition of The Faerie Queene : A Preliminary Survey of Its Text”である。クォート版(1596)のリプリントであるはずのフォリオ版(1609)に施されている念入りな修正から、背後に有能なeditorの存在を推定する氏の議論は、この分野における長年の研鑽に裏打ちされ、実証的かつ刺激的である。
その後にはThe Faerie Queeneを扱う作品論が5本続く。まず竹村はるみ氏の “The Faerie Queene and the Elizabethan Festive Culture” は、エリザベス朝祝祭文化の中で「妖精の女王」表象がどの様な変容を遂げたかを1570~90年という長いスパンで追いながら、そこにスペンサーのThe Faerie Queeneを定位しようとする試みである。氏の博識が遺憾なく発揮された、スケールの大きな論考と言えるだろう。次の笹川渉氏の “Bellona and Minerva in History: The Change of the Epic Simile in The Faerie Queene, Book III” は、エリザベス女王を表象するとされるBritomartをめぐる比喩が、1590年版のBellonaから96年版のMinervaに修正された意味を探り、そこにスペンサーの生きた時代の影響を読み込こんだものである。その切り口と緻密な議論は、本論集の趣旨にふさわしいものだ。さらに足達賀代子氏の “The Attributes of Faith: The Representation of Fidelia in BookⅠof The Faerie Queene” は、“the House of Holiness” の三姉妹の一人Fideliaの、一見奇妙なアトリビュートである「本」と「ワインと水と蛇が入った盃」の意味を考察したものである。同時代の錯綜した宗教的状況を、図像学的なアプローチから読み解いていく氏の論述は、The Faerie Queeneというテクストに対する斬新な視角を提示していると言えよう。続く大野雅子氏の “Lavish Affluence and Luscious Wine: Abundance and Femininity in the Bower of Bliss” は、“the Bower of Bliss”における“Abundance”を、その邪悪でエロティックな力の根源と措定し、Sir Walter RaleighのDiscovery of Guiana、Thomas MoreのUtopia、さらにGervase MarkhamのEnglish Housewifeといった多様なテクストにも、同様に、男性を女性化する邪悪な力としての“Abundance”を読み取る。こうしたintertextualなアプローチもまた、The Faerie Queeneの新しい読みの可能性を予感させるものだろう。そして最後は、水野眞理氏の “From Romance to Battlefront: English, French, and Irish Connections of Spenser’s “Perilous Ford””である。氏の論考は、The Faerie Queene に登場する3つの危険な “ford”の着想の起源を中世および同時代の英仏の文献に探る一方で、そこに加えられた新たな意味を、スペンサーが体験したアイルランドの自然・文化・政治的環境の影響から割り出す試みである。該博な知識を基に “perilous ford”という小さな通路を介して、スペンサーの文学世界という広大な世界へと導いてくれる氏の議論は、読者に、良質の学術論文のみが持つ興奮を与えてくれる。
そして最後の2編には、C. S. Lewisと細江逸記という、 20世紀を代表するイギリスと日本のスペンサー研究者をめぐる論考が配されている。まず根本泉氏の”From Spenser to C. S. Lewis: With Special Reference to “the Pilgrimage” to “the New Jerusalem””は、The Faerie QueeneThe Chronicles of Narniaとの影響関係を論じたものである。碩学C. S. Lewisのスペンサーに対する造詣の深さと傾倒については議論の余地のないところだが、それが彼のファンタジーに具体的にどの様な影響を与えたかは、まだ論じ尽くされてはいない。その点で氏の論考は、スペンサーという作家を現代へつなぐ重要な視点を提供していると言えるだろう。そして論集の卓尾を飾る島村宣男氏の “Kin’i o matoi, hakuba gin’an ni matagari, senki o kaze ni nabikasi, ryuryotaru rappa o sohsite: Itsuki Hosoe and The Faerie Queene” は、英語学者にしてスペンサー研究の先駆者、細江逸記をめぐる論考である。研究社英文學叢書のThe Faerie Queene (1929)に付した細江の註を取り上げ、その特徴(英語学者としての高い見識と洋の東西に渡る広い学識)と魅力を具体的に示した氏の考察は、我が国におけるスペンサー学の成立とその系譜を考える上で、大変貴重な貢献となっている。

以上、論文は粒が揃っていて読み応えがあり、また「歴史」という視点から近年のスペンサー研究の動向を垣間見ることができ、さらに私たちの研究にも様々なヒントを与えてくれるという点で、「17世紀英文学会」の会員の皆さまに是非一読をお奨めしたい好論文集である。

最後に、個人的な話を少々。30年ほど前に私が始めて出会ったThe Faerie Queeneは、たまたま大学の書庫に埋もれていた英文學叢書の一冊だったが、今になって思えば、未熟な初学者にとって、これはまさに僥倖であった。細江逸記の400頁にわたる膨大な註を、いわばアリアドネの糸として、それに導かれながら一夏の間The Faerie Queeneという巨大な迷宮を彷徨ったことで、私はスペンサーの、そして英詩の面白さを実感できた。今、この書評を書きながら、あの至福の夏を久しぶりにありありと思い出し、今度はこの論集を手がかりに、またスペンサーを読んでみたいものと思っているところである。

秋田大学  佐々木 和貴