書評

吉中孝志著『花を見つめる詩人たち―マーヴェルの庭とワーズワスの庭』

研究社 2017 年 vii + 371 pp.

 著者は2011年にD. S. Brewer社のStudies in Renaissance LiteratureシリーズとなるMarvell’s Ambivalence: Religion and the Politics of Imagination in Mid-Seventeenth-Century England を出版し、マーヴェルの詩に見られるアンビヴァレンス(両面価値)を社会の枠組みである哲学・政治・宗教の観点から数多くの文献に基づいて考察した。そして2017年末に出版された本書では、特に庭に重点を置いて庭の構造や植物がマーヴェルの思索と詩作に及ぼす影響を歴史的かつ私的な状況から考察する。さらには時代を超えて、同じく庭や自然から影響を受けて思索と詩作を行ったロマン派詩人ワーズワスの作品を考察してマーヴェルとの相違点を指摘する。あとがきに記されているように、著者は川崎寿彦著『庭のイングランド―風景の記号学と英国近代史』への帯文「庭とは政治的なものである」という言葉に対して、「庭とはもっと人間的なものかもしれない」(274)と考え、詩人個人のセクシュアリティー・記憶・人間関係などのより小さな枠組みが思索と詩作へ影響を与えた可能性を追求する。
 第一章「マーヴェルの『庭』と十七世紀の庭」では、「庭」に登場する果実、特にメロンに焦点を当てて詩の執筆年代と果実の持つ意味を考察する。そして王政復古後の執筆であるとする先行研究の論に対し、当時のメロン栽培技術を記録する草本誌や百科事典などの資料に基づいて「庭」が王政復古前の執筆である可能性が高いことを主張するが、その論は論理的で説得力がある。さらに二章および三章へと続くマーヴェルの庭と性愛の関係について問題提起をする。第二章「庭のセクシュアリティー」では、庭と女性排除および樹木性愛の問題を考察し、官能的だが生殖能力のない庭をマーヴェル自身のセクシュアリティーへと結び付ける興味深い論となっている。第三章「アダムの肋骨とマーヴェルの庭」では当時の社会における女性観と宗教観、特に口うるさい妻に対する女性嫌悪の言説を基に「庭」の所有者とされるフェアファックス卿の夫婦関係が詩に反映されている可能性を示す。いずれの章においても詩を当時の社会の大きな枠組みだけでなくマーヴェルおよびその庇護者の個人的状況へと結び付ける考察がなされる。マーヴェルに関しては、その執筆年代をはじめとして宗教やセクシャリティなどあらゆる面において曖昧さやアンビヴァレンスを残す。そのため論が単なる推測で終わる危険性と常に隣りあわせだが、著者は綿密に資料を検証することにより整合性がある論を展開する。
 第三章の後にはマーヴェルとワーズワスを繋ぐインタールードとして「花を見つめる詩人たち―ヴォーンとワーズワス―」が配置される。ヘンリー・ヴォーンを中心に自然描写に見られるヘルメス思想の考察が入ることにより、次章のワーズワス論へ違和感なく読み進めることができる。
 第四章「場所としてのワーズワスの庭」では、ワーズワスの庭はエンブレム的な庭ではなく、極めて個人的な意味と意義とに関係付けられると著者は述べる。マーヴェルの「庭」におけるメロン同様、ワーズワスの「蝶へ」における蝶の持つ意味からその庭を考察する。そしてワーズワスの庭は「人と人、特に家族関係を結び付ける『再集結地』『活力回復地点』となっている」(233)と著者は主張する。第五章「ワーズワスの庭と所有の不安」では、「自然との一体化を望む一方で庭の仕切りを排除しない」(239)ワーズワスのアンビヴァレンスを指摘する。そして、ワーズワスは他者の所有物であり所有者変更の不安定さを孕む庭および自然に対する不安を詩で表現することによって、詩という形でそれらを所有しようとしていると結論付ける。マーヴェルの特徴である庭への執拗な関心とアンビヴァレンスがワーズワスにも表れていることへの指摘は大変鋭いものである。
 一見すると接点がないように思われる初期近代の形而上詩人マーヴェルとロマン派詩人ワーズワスを、庭の植物や花を見つめて思索と詩作を行うという共通項で結び、見落としがちな詩の言葉に注目してそれが示す意味と意義を明らかにする。時代が異なる二人の詩人の研究は、文学作品を共時的に読むだけでなく通時的に読む価値を示していると言えよう。論はいずれも豊富な資料に基づく実証主義に従いながらも平明な文体で書かれて大変読みやすい。引用はすべて原文と日本語訳が併記されており、それは近年の英語教育における訳読軽視・速読重視に対する「ささやかな抵抗」であると著者は語る。ゆっくり読めないものは速く読めるわけがないという考えのもと、原文併置は「この本を読む速度を遅くさせるための工夫」(276)であり、一語一語を大切に扱う詩の重要性と英語教育における文学作品精読の必要性を訴える。この訴えには英文学研究者そして英語教員として大いに共感を覚える。私自身も今後の研究および教育活動で微力ながら著者の「ささやかな抵抗」に加わっていきたいと思う。本書は、分野を超えて教員や学生たちに是非読んでもらいたい一冊である。

関西学院大学 竹山 友子