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第2回全国大会(2013)

日時:2013年5月24日(金)16時〜18時(発表時間は各30分+質疑応答各10分)
場所:仙台ガーデンパレス5階 宮城野の間
〒983-0852 仙台市宮城野区榴岡四丁目1番5号
TEL.022-299-6211 FAX.022-299-6248

ヘリックのカントリー・ハウス・ポエム

古河美喜子(東北支部)

ヘリック(Robert Herrick,1591-1674)が田園について謳った詩は、石井正之助『ロバート・ヘリック研究』から大まかな定義をひけば「シドニーやスペンサー、フィニアス・フレッチャー等の古典的・イタリア的な牧人物語から、更に時代を下ってクーパーやトムソンが描いたイギリス田園風物詩となる、その過程の途中に現れたもの、そして、これら幾つかの異なる面を併せ持つ田園詩」といえる。またロストビックによれば、田園風景がイギリス文学の中で大きな比重を占めるようになるのは「1630年以後のこと」であるという。1630年以来の王党派の田園趣味、即ち田舎礼賛やともすれば現実逃避にも似た想いは、同じ頃に住み慣れたロンドンを離れ南西部デヴォンシアに司祭の職を得て赴任した詩人の心情へとそのまま繋がり作品に反映されていると考えられる。本発表では、当時流行したカントリー・ハウス・ポエムというジャンルを踏まえ、詩人の田園趣味に隠された政治性に関して考察を加えてみたい。

John Bunyan, Grace Abounding to the Chief of Sinnersについての考察

齊藤美和(関西支部)

一般にSpiritual Autobiography とされるGrace Abounding(1666)が、バニヤンの監禁生活から生まれたいわば獄中記の一つであることはよく知られている。Spiritual Autobiography は、Conversion Narrativeとも称されることから分かるように、キリスト教徒が自らの回心体験を綴った記録である。Grace Aboundingのなかで自身の過去を幼少時代から回想し、神に裁かれる罪人の親玉として描き出すバニヤンであるが、執筆当時彼がおかれていた獄中の受難者としての現実が、常にそこに重なり合うように読者には意識されていたはずである。内面に巣食う誘惑によって地獄の責苦を味わう罪人バニヤンを<図>とするならば、国教徒からの迫害に晒される受難者バニヤンは<地>であって、殉教者伝の語彙や常套を用い、前者を語りながら後者を絶えず浮かび上がらせることによって、バニヤンは罪人/殉教者としての自画像を周到に描いてみせたのである。

ネイハム・テイトのシェイクスピア改作における民衆

伊澤高志(東京支部)

本発表では、ネイハム・テイト(Nahum Tate)によるシェイクスピア改作のうち、『リア王』の改作である『リア王一代記』(The History of King Lear
. 1681年初演、同年出版)と、『コリオレイナス』の改作『共和国の忘恩』(
The Ingratitude of a Common-Wealth: or the Fall of Caius Martius Coriolanus. 1681年初演、1682年出版)を取り上げ、両作品における民衆表象について考察する。とりわけ、『リア王一代記』におけるリアの復権と悲喜劇的結末に寄与する民衆の機能( 同時に、それと対極的な『共和国の忘恩』における民衆の機能)、およびそれを可能にするためにグロスターが果たした役割とそこでの言語的・身体的なレトリックに着目することで、テイトが示す「民衆」の多義性とその政治性を明らかにすることを目的とする。